2025年9月11日、ビリー・バンバンの兄で歌手の菅原孝さんが、肺炎のため81歳で永眠した。葬儀は19日に家族・親族だけで密葬が執り行われ、喪主は妻・けい子さんが務めた。お別れの会などは未定。
菅原さんは、2014年に脳出血で倒れ、左半身にまひが残ったものの、翌2015年には仕事復帰。その後も車椅子に乗りながらコンサートやトークショーに出演し、音楽への情熱を最後まで貫いた。弟の菅原進は「56年間、共に歩んできた兄は、誠実で優しく、思いやりにあふれた偉大な存在でした」と語り、ファンに惜しまれるその死を悼んだ。
プロフィールと学歴──音楽に導かれた青春
- 名前:菅原孝(すがわら・たかし)
- 生年:1944年頃(81歳没より推定)
- 職業:歌手・司会者
- 所属グループ:ビリー・バンバン
- 学歴:慶應義塾大学在学中から音楽活動を開始
弟・菅原進は青山学院大学在学中にバンドを結成。やがて兄弟で活動を共にすることとなり、大学時代から音楽に没頭した青春時代が彼らの原点となった。菅原さんの人生は、まさに音楽に導かれた軌跡そのものだった。
菅原孝の華やかな音楽キャリア
1968年、兄弟でビリー・バンバンを結成。1969年にリリースされたデビュー曲「白いブランコ」は、若者の心を一気に掴み、20万枚を超えるヒットとなった。1972年には「さよならをするために」が80万枚超の大ヒットとなり、NHK紅白歌合戦にも初出場。「カッレジフォークの旗手」と称され、時代の寵児となった。
1976年に一度解散した後も、菅原さんは司会業などで活動の幅を広げる。1984年にはビリー・バンバンを再結成し、2007年には「また君に恋してる」が大ヒット。焼酎「いいちこ」のCMで広く知られ、後に坂本冬美をはじめ多くの歌手にカバーされるなど、世代を超えて愛され続けた。
そのキャリアは、単なる「ヒット曲の記録」だけでは語れない。菅原さんの音楽は、聴く人の心に寄り添い、共感と温もりを届ける力を持っていた。
闘病と挑戦──左半身のまひを乗り越えて
2014年、菅原さんは脳出血で倒れ、左半身にまひが残った。この時点で、多くの人なら音楽活動を諦める状況だった。しかし彼は屈せず、2015年に復帰。車椅子に乗りながらステージに立ち、ファンや関係者の前で「この左側が動かないんだよな」と冗談交じりに話す姿は、病気や障害を笑いに変える強さと、人間的な温かさを感じさせた。
コンサートでは弟・進のサポートを受けながら、歌声とトークで観客を魅了し続けた。その姿は、闘病の苦しみを抱えながらも音楽に生きることを選んだ、まさに「音楽人生の象徴」と言えるだろう。
家族と人となり──音楽だけではない深い絆
菅原さんの妻はけい子さん。公私にわたりそばで支え続けた存在だ。子供に関する情報は公開されておらず、家庭の詳細は控えめに守られていた。
弟の菅原進は「日がたつにつれて、兄の歩んできた人生を深く感じています。本当に偉大な兄でした」と語る。兄弟だけでなく、音楽仲間やファンにとっても、菅原さんは人生の道標のような存在だった。
菅原孝の半生──音楽と生きた81年
菅原孝さんの半生は、音楽への情熱と闘病の葛藤に彩られていた。ヒット曲で時代を駆け抜け、解散と再結成を経験し、晩年は病と向き合いながらも歌い続けた。その姿は、現代の音楽ファンにとっても大きな励ましとなる。
81年の人生、そのすべてが歌となり、記憶となって私たちの胸に残る。ステージに立つ彼の笑顔、観客と交わした会話、仲間や家族との絆──それらすべてが、菅原孝さんという人物の偉大さを物語っている。
音楽に生き、愛され、そして戦い抜いた人生──菅原孝さん、心からありがとう。