2023年、noteに投稿した「パパと私」で世間の心をわしづかみにした文筆家・伊藤亜和。
セネガル人の父と日本人の母を持ち、横浜で育った彼女の文章には、常に「家族」という切り口がにじんでいる。
孤独だった高校時代、サークル仲間と笑い合った大学時代、そして作家として羽ばたいた今。
その根底には、父の存在、母の支え、弟の破天荒さ、そして静かな婚約者の姿が、色濃く刻まれているのだ。
ここでは、エンタメブログらしく切れ味のある文体で、伊藤亜和の家族構成を徹底的に解剖する。
婚約者、子どもへのまなざし、父、母、弟――そして話題となった「セイン・もんた」の名前の秘密まで。
笑いあり、涙あり、リアルなドラマに浸ってほしい。
婚約者 ―― “静けさ”に惹かれた理由
2025年、28歳で迎える結婚。
その相手は、彼女のエッセイ『アワヨンベは大丈夫』の中にも登場する“みーちゃん”だ。
これまでの恋人たちはどちらかといえば「おしゃべりな人」が多かった。聞き役に回ることが多かった亜和にとって、相手は“しゃべる人、聞く自分”という構図が定番だった。だが、みーちゃんは真逆。とにかく静かで、言葉数が少ない。
――その沈黙の中で、亜和自身が初めて“よく喋る人”になれたのだ。
二人の関係性はシンプルだが、とても新鮮。
「静けさ」が逆に彼女の心を開かせ、今までの恋愛では感じられなかった安堵感をもたらしている。
結婚式は横浜のホテルニューグランドで予定されている。ここは祖母がかつて掃除婦として働いていた場所。苦労して生きた祖母に、今度は“ゲストとして楽しんでほしい”という願いを込めた会場選びだ。
子ども ―― まだ見ぬ未来への想像図
現在、子どもはいない。だが、亜和の語る「理想の家庭像」には、子どもの存在がはっきりと見えている。
彼女が育った家族は、会話が少なかった。
「飛んできたボールを誰もキャッチしない」という表現で語るように、発した言葉が空中で消えてしまう孤独があった。
だからこそ、自分の家庭は「会話がある家庭にしたい」と語る。
“ちゃんと相手を想い、キャッチボールできる場所”――それが彼女の思い描く未来図だ。
子どもができたら?
彼女は迷わず「言葉で愛情を伝えたい」と答えるだろう。彼女自身が渇望してきた“会話”を、次の世代に渡すために。
父 ―― 褒めてくれた一言と、10年の沈黙
父はセネガル人、イスラム教徒。
亜和が7歳の頃までは一緒に暮らしていたが、両親の離婚を機に別々の人生を歩むことになった。
父との思い出で特に残っているのは、彼が放った言葉だ。
「アワヨンベ! すごい!」
ストレートに褒めてくれるその口調は、亜和にとって“水のように残る栄養”となった。
10年以上会えていない今も、その言葉が心の奥に響いている。
しかし、結婚式に父を呼ぶかどうか――これは「大問題」だと彼女は語る。
再会することへの恐怖と、父を求める心。その二つが複雑に絡み合っているからだ。
「父は日本語を読めないから、私の本を手に取っても中身は分からない。でも、娘が本を出したこと自体はきっと喜ぶと思う」
その複雑な感情は、彼女の作品を通じてこれからも表現され続けるだろう。
母 ―― 静けさと共感力のなさと、唯一無二の支え
母は日本人。
明るくおしゃべりな祖母と対照的に、母は「共感力のない人」として描かれることが多い。
娘の亜和が孤独に苦しんでいても、あまり寄り添う言葉をかけるタイプではなかった。
だが、その静けさは裏を返せば「生活を必死に支える強さ」でもあった。
離婚後、母は一人で二人の子どもを育てた。
祖父母の近くに住み、支え合いながら暮らしたが、母の苦労は想像を絶する。
亜和が結婚式を「祖母のゆかりの地」で開くのは、母への感謝も含まれているのだろう。
弟 ―― 憎らしくも愛おしい共犯者
7歳下の弟は、まさに「問題児」であり「愛すべき相棒」だった。
小学校の門を脱走し、公園でどんぐりを燃やし……。その自由奔放さに母は嘆き、姉は頭を抱えた。
だが同時に、彼の存在は家庭に活気を与え、亜和のエッセイの中でも笑いを呼ぶエピソードの宝庫となっている。
現在は少し引きこもりがちでモデル志望。未来は不透明だが、姉弟の“世界の共犯関係”は今も続いている。
弟の名前は、セイン・もんた?
ここで気になるのが「弟の名前」である。
亜和のエッセイに出てくる“セイン・もんた”という呼び名は、読者をざわつかせた。
実際の本名は「ママドゥ」。セネガルにルーツを持つ名前だ。
しかし日本の学校ではどうしても目立ち、からかわれることがあった。
そこで姉は、ふざけたような“セイン・もんた”という名前で呼んだ。
それはただのあだ名ではない。からかわれる前に、自分たちで笑いに変えてしまうための「守りの術」だったのだ。
――痛みをユーモアに変える。
その感覚は、今の彼女のエッセイスタイルにも直結している。
名前の裏には、姉弟の共犯関係と、ハーフとしてのアイデンティティがぎゅっと詰まっているのだ。
終わりに ―― 家族は宿題であり、物語である
伊藤亜和の家族は、完璧とはほど遠い。
父とは断絶し、母とはすれ違い、弟とは騒がしい日々。
それでも彼女はそこから目を背けず、ユーモアを混ぜながら言葉にしてきた。
「家族」という宿題はまだ解けていない。だが、だからこそ物語は尽きない。
婚約者との未来、子どもへのまなざし、そして父との再会。
そのすべてが、彼女のエッセイをさらに深くしていくに違いない。