9月20日早朝、映像作家でクリエーティブディレクターの 芹沢洋一郎さん が、62歳でその生涯に幕を下ろした。訃報が公に伝わったのは27日、妻がX(旧Twitter)を通じて発表した声明によってである。
芹沢さんは「本人の希望により家族葬で見送られた」とされ、静かで誠実な最期を選んだ。その一方で、生前に自ら残した長文のメッセージは、映画人として、そして一人の人間としての生き様を鮮やかに刻み込むものだった。
この記事では、芹沢さんの 死因、プロフィール、学歴、経歴、結婚相手、子供の有無 を整理しながら、その人生を改めて振り返りたい。
■ 死因 ― 希少癌「空腸癌」との闘い
芹沢さんの死因は、小腸の空腸癌。医学的にも非常に珍しく、20万人に1人しか発症しないと言われる希少癌である。
2024年末に病が発覚。標準治療や薬が存在しない中で、彼は新薬の治験やあらゆる可能性を探り続けた。しかし2025年7月末、3度目の腸閉塞を起こし、医師から「余命2か月」と宣告される。
驚くべきは、その残された時間の過ごし方だ。普通なら絶望や苦痛に押し潰される状況だが、彼は「試してみたかった映像技法に挑む」と決め、最期の2か月を徹底的に創作に費やした。
死と隣り合わせの状況でなお「表現」に立ち向かった姿は、まさに映画作家の矜持そのものだった。
■ プロフィール ― 62年を映画と共に
- 氏名:芹沢洋一郎(せりざわ・よういちろう)
- 生年:1963年(昭和38年)
- 没年:2025年(享年62歳)
- 職業:映像作家・クリエーティブディレクター
- 代表作:
- 『まじかよ?』(1980年/PFF81入選)
- 『間男』(1989年/IFF90入選)
- 『殺人キャメラ』(1996年/サンフランシスコ国際映画祭入賞)
プロフィールを並べるだけで、そのキャリアが「若さ」と「挑戦」に満ちていたことが分かる。
■ 学歴 ― 学校よりも映画が師だった
公的な学歴については公開されていない。しかし17歳にしてPFFに入選したことからも、学生時代から徹底的に映像制作に没頭していたことは明らかだ。
学歴という枠組みに縛られるよりも、「カメラを回すこと」こそが彼の学びであり、成長の場だったのだろう。
■ 経歴 ― 映画祭に挑み続けた異端の作家
芹沢さんのキャリアは、常に「挑戦」の二文字で彩られている。
- 1980年(17歳):自主制作映画『まじかよ?』がPFF81に入選。若き才能として一躍注目される。
- 1980年代:流血映画を次々と制作。奥山順市監督に師事し、映画作りの現場で経験を積む。
- 1989年:『間男』がIFF90に入選。
- 1996年:『殺人キャメラ』がサンフランシスコ国際映画祭で入賞。国際的にも評価される。
彼の作品は時に過激で、時にユーモラスで、そして常に哲学的な問いを内包していた。生と死、人間の本能、夢と現実――。晩年の言葉と作品を重ね合わせると、「創作そのものが彼の人生哲学」だったことが浮かび上がる。
■ 結婚相手 ― 最期を支えた妻
今回の訃報は、妻がXを通じて発表した。声明文からは「最後まで本人の希望を尊重し、静かに送り出した」という誠実さが伝わってくる。
「映画と共に62年の生涯を駆け抜け、最期は穏やかに眠るように旅立った」と妻が綴った一文は、夫婦としての時間の重みと深い愛情を感じさせる。
公の場に多くは姿を見せなかった妻だが、芹沢さんが最期に自らの言葉を残せたのも、彼女の存在があったからだろう。
■ 子供は? ― 公表されていない家族構成
子供の有無については、公式には明かされていない。葬儀も家族葬で、詳細な情報は伏せられている。
ただし、メッセージの中で芹沢さんは「家族や友人に最後のお願いをして無茶を言いながら、創作に没頭した」と記している。つまり、血縁かどうかに関わらず、彼にとっての“家族”は、妻や親しい仲間たちを含めた温かい共同体だったのだろう。
■ 生前メッセージに宿る哲学
注目すべきは、彼が自ら死を迎える直前に残した言葉だ。
「夢の記憶が無い眠りと死は、一体何が違うのか?全く同じじゃないだろうか?」
死を恐れるのではなく、静かに「眠り」と同一視する。映画作家らしい視点であり、同時に人間としての率直な思索でもある。
さらに最後の挨拶は、こう締めくくられている。
「お先に、おやすみなさい」
この一文が、多くの人の心を震わせた。SNSでは「美しすぎる」「こんな言葉を残せる人生を送りたい」と称賛の声が相次いだ。
■ 考察 ― 芹沢洋一郎という生き様
芹沢さんの人生を振り返ると、次のような特徴が浮かび上がる。
- 学歴や常識にとらわれず、映画に没頭した少年期
- 国内外の映画祭で評価されるほどの創作力
- 病に屈せず、最後まで「表現すること」を選んだ覚悟
- 妻と共に、自分らしい最期をデザインした誠実さ
彼は、映画作家であると同時に、「人生そのものを作品にした人」だったと言える。
■ まとめ ― 映像と生き、映像に還った人
希少癌という過酷な病に直面しながらも、最後まで創作への情熱を失わなかった芹沢洋一郎さん。
その人生は、まさに 「映像と共に生き、映像に還った」 物語だった。彼の残した作品、そして最後の言葉は、これからも多くの人々に勇気と余韻を与え続けるだろう。
「お先に、おやすみなさい」――。
その穏やかな別れの言葉は、映画のエンドロールのように、私たちの心に静かに流れ続けている。